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** 筑前国分寺 **『筑紫語文』から「古寺探訪」

 日本語・日本文学科では、1回生の卒業以来、学科の学修活動を表すものとして『筑紫語文』を刊行してきました。前年度の優秀論文を中心に、博物館学芸員課程や教職課程、日本語教員養成課程の活動、文芸創作科目の作品などの学修成果と、学科として行っている特別講義・公開講座の報告や教員の研究余滴・コラムなどを掲載しています。
 それらの記事の中から、今回は橘名誉教授の「古寺探訪 筑前国分寺を訪ねて」をご紹介します。

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古寺探訪  筑前国分寺を訪ねて

橘 英哲(日本語・日本文学科名誉教授)

 

 今回は文字どおりの古寺、それも遺跡を訪ねる。奈良時代に諸国に建立された国分寺の一つ、筑前国分寺である。所在は太宰府市国分三、四丁目、大宰府の北にそびえる四王寺山の南西の麓、ゆるやかな台地に位置する。学業院中学の前を三号線に出て、すぐに斜めに狭い道を入ると、やがて正面に寺が見えてくる。私がここを訪れたのはもう二十数年前になろうか、当時、短大では初夏に大宰府文学散歩を行っていて、何回か学生といっしょに訪れたことがある。静かな住宅地の雰囲気は、まだそれほどは変わっていないようである。

 現在の国分寺は、江戸時代に再建された真言宗の寺であり、遺跡はその寺の右に塔、裏側に講堂の跡として残っている。中心になる建物夢殿は、現在の寺の下に埋蔵文化財として眠っているということである。

 道路から少し高くなったところに塔跡があり、組積も整備されて残っている。塔は後述する詔(みことのり)によって七重の塔であったことが分かっていて、すぐ近くの文化ふれあい館に、復元模型が展示されている。十分の一の模型で高さが五・二メートルということなので実際は五十二メートル、壮大華麗な建造物だったのである。

 国分寺造立の詔は天平十三年(七四一)聖武天皇の時代に出された。当時、日本は飢饉や疫病に悩まされていた。疫病とは天然痘のことで、筑紫から流行しはじめたようである。また、新羅との関係も険悪になっていて、国の内外に問題をかかえていた。その解決のために聖武天皇は、仏教の力を借りようとしたのであった。そこで諸国に官寺を建て、一丈六尺の釈迦尊像・七重塔を造らせ、さらに金光明最勝王経・法華経を書写させ、また別に金字金光明最勝王経を下賜した。国分寺を正式には「金光明四天王護国之寺」、同時に造立された尼寺を「法華滅罪之寺」と名づけているのも経典の名に由来する。

 国分寺の造立は全国にわたるが、九州でも僧寺が十二、尼寺が八ヶ寺にのぼる。寺も官寺であり、当然所属する僧も官許の僧、いわば国家公務員である。そして全国に造り、一斉に災厄から逃れる祈願をさせた。当時の寺は、鎮護国家のために存在したのであった。そして仏教は国家に奉仕し、国家の庇護を受けて、日本の中に定着してゆき、天平仏教文化の反映が成る。奈良大仏殿の建立などは、鎮護国家の目的でなければ成し得ない事業であろう。

 しかし宗教は、基本的には個人の救済のためにこそある。この頃でもそれを忘れない人たちはいた。官許を得ない在野の僧、いわゆる私度僧たちである。彼らは民衆に法を説き、国家権力とは無縁の人たちであった。少し遅れた平安初期にに成った『日本霊異記』は、そうした民衆教化のために編まれた説話文学であり、作者の景戒(きょうかい、けいかいとも)も私度僧であった。壮大な大仏を建立した国家仏教であったが、一方では着実に民衆のためにも存在したのである。

 この筑前国分寺の寺域は未発掘の部分もあってさだかではないが、推定ではほぼ二百メートル四方にわたるようである。最近の新聞報道でも、あらたに塀跡などが見つかり、国指定の地域が加えられるよし、全容解明も間近いことなのであろう。国分尼寺もこの少し西にあった。詔によれば、人に近すぎず、また遠すぎず、好処を選ぶようにと指示されていた。その意味でもこの地は好適であったのであろう。

 塔跡にたたずみながら、しかし私はこの地の古代の人々のことを思って居た。大宰府という当時の西海道の中心の地に近く、大寺の中の鎮護の経を聴きながら、仏の教えをどのように思っていたのだろうか。もちろん当時は、豊作を願うのも病気平癒を願うのも、仏教の力に頼らねばならなかった。それだからこそ人々の思いも複雑なものだったのではないか。それからさらに数百年を経た鎌倉仏教の成立を待って、ようやく仏教は個人のものになっていくのである。

 

『筑紫語文』第16号(2007年)より

 

No.157 **********