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6/8(日)オープンキャンパスにてミニ講義を開催しました
- 2025年06月13日 -
6月8日(日)オープンキャンパスでは、日本語・日本文学科、松下博文教授によるミニ講義が開催されました。その内容を紹介します。
「吾輩はホラー作家である 漱石のミステリー小説」
◆「猫」の最期は?
みなさんは、「吾輩は猫である」の結末をご存知ですか。主人公の「猫」は、ビールを飲み、足を滑らせ、台所の水瓶に落ちて溺死してしまいます。作品の書き出しは滑稽で陽気で面白いですけれども終わりはなんともホラーでミステリアスな結末になっています。しかし、あの有名な「こころ」にしても、「先生」をめぐる物語はストーリーが進んでいくにしたがい、謎が深まりミステリアスな展開になっています。
◆「夢十夜」の仕掛け
漱石作品のなかでもっともホラーで身の毛がよだつ作品が「夢十夜」に収められている「第三夜」です。この作品にはいくつかの「仕掛け」(コトバのなぞ)が仕組まれています。その仕掛けはなかなか巧妙で、コトバの向こう側のコード(意味の枠組み)を解読してはじめて、そのコトバに込められた漱石の「仕掛け」を見破ることができます。ここでは二つの仕掛けを紹介することにしましょう。

◆背中の子供はなぜ「六つ」
六つになる子供を負(おぶ)っている。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰(つぶ)れて、青坊主になっている。
漱石はなぜ背中の子供を六歳に設定したのでしょうか。古来日本では〈七歳までは神のうち〉と言い、数え年七歳までを神の子として扱う風習がありました。七歳をすぎると一人前の「人」になるということですが、逆に言えば、七歳以下は「人」ではないということです。すなわち人間の形をしていない妖怪、鬼の類だということです。その昔、多くの子供は七歳を迎える前に病気等で亡くなっていました。父親が負ぶっている〈六つ〉の子供は「死児」(妖怪・餓鬼)であったのかもしれません。では、父親と子供はどこに向かって歩いていくのでしょうか。

◆「左」が意味するもの
しばらくすると二股になった。自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。
「左が好いだろう」と小僧が命令した。左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛(な)げかけていた。
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云(い)う自覚が、忽然として頭の中に起った。おれは人殺しであったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。
すでに気づいているかもしれませんが、子供の呼び名が〈小僧〉に変わっています。父親は子供の存在がうとましくなり、森の中へ捨ててしまおうと考えているのです。途中、道が二股になりました。背中の〈小僧〉は「左」に行くように命令します―子殺しの現場へ-父親はこの森のこの杉の根元のこの場所で百年前に我が子を殺していたことを自覚します。
ここで留意すべきは「左」という方向です。なぜ、子供は「左」に行くように命令したのでしょうか。ご承知のように、「左」は反時計回り、時間を過去にさかのぼる方向を示しています。漱石はこの作品のクライマックスに「左」という反時計回りの装置を仕掛けていました。この仕掛けはなかなか見破ることが困難です。
漱石の作品にはさまざまな謎が仕組まれています。文章をていねいに読み解きながらあなたも名探偵コナン君になってコトバのコード(意味の枠組み)を探してみましょう。いろいろ面白いコードが見つかるはずです。
