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公開講座『第16回仏教学研究室公開講座「親鸞~その生涯をめぐって~③」』を開催しました【生涯学習センター】

 11月13日(土)筑紫女学園高等学校 水月ホールにおいて、『仏教学研究室公開講座「親鸞~その生涯をめぐって~」③越後流罪から関東伝道へ』を開催しました。
 講師はアジア文化学科教授の小山一行先生です。
 法然聖人の教えである「専修念仏」とは、「ただ「南無阿弥陀仏」と称えて阿弥陀仏に救われていく」ということなのですが、これはそれまでの比叡山で行われていた「総合的な仏教」に対して、ただ一つの道を選び取る、つまり選択(せんじゃく)することを宣言された新しい仏教の誕生とも言うべきものでした。比叡山の方から寄せられた批判に対して、法然聖人は「私たちは決して比叡山の仏教を否定しているわけではありません」と「七箇条制誡」に署名され、一応おさまりますが、その後奈良の興福寺から出された訴えによって念仏停止の決定がなされ、法然聖人は四国へ、親鸞聖人は越後へ流罪となりました。当時のお坊さんは国家公務員と同等の待遇なので勝手には処分ができず、還俗(俗人)として流罪にしたわけです。この時、親鸞聖人は「愚禿親鸞」と自ら名乗られたのですが、これは「髪が短い、愚かな僧侶」ということを意味するものでした。
 罪は4年後に赦免となり、法然聖人は京都へ戻られますが、親鸞聖人はしばらく越後にとどまり、それから関東に赴かれて、約20年間布教活動をなさいました。直接京都へお帰りにならず、関東へ向かわれた理由については、親鸞聖人に子どもが誕生して長旅が無理だと思われたこと、赦免の翌年に法然聖人がお亡くなりになり、京都へ行く必要がなくなったこと、弾圧が続き、京都へ行くことが難しくなったこと、妻の実家(三好氏)所領を頼って関東へ行ったのではないか、北陸農民の移住にともなって同行したのではないか、『教行信証』の執筆に際し一切経を見るためではないか、などと諸説があるようです。
 関東時代は親鸞聖人が最も精力的に念仏の教えを広められた時代で、多くの弟子たちが育ち、原始真宗教団とも言うべきものが成立してゆきます。しかし、それは弟子たちの間で対立を生むことにもなり、親鸞聖人は「自ら信じて、人に教えることは実に難しい」と感じられて関東を去られたということです。こうした事情は、「異なることを歎く」という意味で記された『歎異抄』という語録からもうかがうことができます。
 当日は約60名の参加があり、小山先生のご講義に、みなさん一生懸命にメモを取られ、講義終了後には熱心に質問される方もありました。
 次回は、再び京都に戻られた親鸞聖人についてのお話へと続きます。
(報告/人間福祉学科 3年  安山 久美)
*今後の予定は、以下のとおりです。
④11月27日(土)
テーマ:帰洛後の親鸞
講師:平 孔龍(本学園中学教諭・大学非常勤講師)
⑤12月11日(土)
テーマ:往生から本願寺成立へ
講師:栗山俊之(本学短期大学部現代教養学科准教授)
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