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公開講座「仏教文化講座 親鸞~その生涯をめぐって~」④を開催しました【生涯学習センター】

 7月1日(水)に太宰府市いきいき情報センターにおいて、第12回仏教文化講座「親鸞~その生涯をめぐって」を開催しました。
 講師は本学非常勤講師の平孔龍先生(筑紫女学園中学校教諭)です。
 第4回となる今回は、「帰洛後の親鸞」がテーマでした。
 
 親鸞聖人は約20年の東国での伝道生活を終えられ、60歳頃に故郷京都に帰洛されました。帰洛の理由には、関東での伝道に満足した、望郷の念を抱いたというように、様々考えられますが、大きな理由としては2つが考えられます。1つは、関東の伝道で多くの門徒集団ができ、親鸞聖人を人師と仰ぐ人も現れ、集団間で生じた門徒の奪い合いから離れるためだとされています。親鸞聖人は「私は一人の念仏者であり、我が弟子、人の弟子などと弟子を持つことは考えたことがない」とし、人師と呼ばれることに抵抗があったそうです。2つめは、『教行証文類(教行信証)』の完成のためとされています。この『教行証文類』の完成が最大の帰洛の理由と考えられ、この書物の中で、浄土真宗のみ教えに出遇われた喜びを表すのに、漢字の「遇」を用いて「出遇う」と表現されています。
 
 55歳の時に「嘉禄の法難」と呼ばれる専修念仏の弾圧が起き、法然聖人のお墓まで荒らされ、親鸞聖人は彼の教えが京都で廃れてしまうことを危惧します。このことも、京都へ帰られた理由のひとつだったのでしょう。帰洛後は、関東の門弟と手紙(『御消息』)のやり取りをされています。ある手紙には、関東の門弟たちからの財施に対する丁寧なお礼が述べられています。『教行証文類』の完成後は、和語による書物を中心に著されています。親鸞聖人の著述の14作品のうち、10作品は和文で著され、当時「文字を知らない人にも知って欲しい」という願いの中に書かれ、多くの人に念仏の教えに出遇ってほしいという親鸞聖人の心遣いが窺えます。そのような中で、関東の門弟の中には、念仏を称えることに加えてさらに善いことをしなければならないという者(専修賢善の異義)、どんな過ちも許されると思う者(造悪無碍の異義)、救いそのものを疑う者が現れます。親鸞聖人は、本願の教えに甘える造悪無碍の異義については厳しく戒めます。さらに、関東の混乱を治める為に遣わした息子・善鸞が、偽った説を関東で説いていると分かり、親鸞聖人は義絶を決断します。
 
 帰洛後の親鸞聖人は、多くの著述をなさるなかでいろいろなことで悩まされることになります。善鸞との義絶は、教えを守り抜くための苦しい決断であったでしょう。法然聖人の念仏の教えを貫くこと、念仏の本当の意味を重視した親鸞聖人の意志の強さを感じました。
                   (報告/日本語・日本文学科 2年 田原夏美)
 
*次回は7月8日(水)に開催します。
また、平成21年度後期は10月にえーるピア久留米にて、『仏教入門』の講座を開催する予定です。詳細が決まりましたら、ホームページ等でお知らせします。
 
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