2024.04.05
筑女県人会の新入生歓迎イベントを開催しました
2月27日(土)の講座は、第2回目に引き続き松下博文教授が担当しました。今回のテーマは『天平の甍』に付された「歴史小説」という評価を巡っての問題提起でした。
内容は、井上靖の自作解説「『天平の甍』の登場人物」の確認に始まり、作品の〈歴史性〉と〈文学性〉を巡って、森鴎外の「歴史其儘と歴史離れ」を導入部にしながら、井上の『蒼き狼』をどのように評価するのかというものでした。『蒼き狼』は、大モンゴル帝国を一代で作り上げた「テムジン」が「ジンギスハン」になるまでの物語です。
この作品については、大岡昇平と井上靖の間で「『蒼き狼』論争」という文学論争が展開されました。大岡は『蒼き狼』に〈改竄〉〈改変〉があり、〈安易な心理的理由づけ〉をし過ぎると批評しました。歴史小説は史実に則して時代考証を施しながら書き上げるものであるという主張です(歴史其儘)。それに対して井上は、歴史小説とは、史実を基にしながらもむしろ「小説」の方向を膨らませながら虚構の世界を作り上げるものだと主張しました(歴史離れ)。
わたしは今回のお話を聴きながら、大学の講義で学んださまざまな文学理論を思い出し、理論のなかで使用されていたいくつかの批評と比較しながら有意義な時間を過ごすことができました。そして次のような考えに辿り着きました。「歴史」とは「人」が作る「物語」である、ということです。歴史には「人」が必ず存在しています。歴史を描くということは「人を描く」ということではないかと思います。「歴史」も「文学」もすべては人を通して存在しているのです。
そして、先生が最後に言われた「教科書」と「テキスト」の概念上の違いに深く共感しました。「教科書」が主体と無関係の「教科書」という「モノ」である以上、そこに双方向の触れ合いは生まれません。しかし、「教科書」が開かれ、読み手が積極的にその「教科書」に関わる瞬間に、「教科書」はモノから「テキスト」に変わります。モノと受け手が双方向に織り成す〈テキスト=織物〉世界が現われてきます。そのように考えると、わたしたちが歴史小説を「読む」という行為は、「歴史」と「小説」のはざまで、一人の「人」として、新たな歴史を創る双方向の営みにつながっているのではないかと思うに至りました。
(報告/文学部 日本語・日本文学科3年 薬師寺葵)