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公開講座「第19回仏教文化講座」⑤を開催しました【生涯学習センター】

 7月6日(水)太宰府市いきいき情報センターにおいて、第19回仏教文化講座「『歎異抄』に学ぶ」を開催しました。講師は人間科学部講師の宇治和貴先生です。

 今回の講座では『歎異抄』の第五条をテーマにご講演いただきました。講演では、親鸞聖人が第五条において述べられたことの要点を解説していただきました。
 まず注目すべきは、念仏を回向して亡くなった父母を救おうとする追善回向、または追善供養と言われる念仏を否定されていることです。回向は本来三種類に分類され、その中の一つである、他の人々を救うために振り向ける「衆生回向」が浄土真宗で重要視されています。親鸞聖人や師匠である法然聖人以前の時代には、死者を弔う追善供養が一般に定着していました。それを否定したのはなぜでしょうか。その理由として二つのことが挙げられます。

 一つ目の理由は、念仏に於いて父母を救うということは、実は一切の有情を救うという意味を持つため、到底凡夫としてできる業ではないということです。親鸞聖人はあらゆる生命には繋がりがあると考えて、「一切有情は、世々生々の父母兄弟なり」と仰いました。従って、聖人にとって自分の身内を救うということは、あらゆる命を救うことに他ならないのです。
 二つ目の理由は、念仏は私たち一人一人が生死を超える道として、如来から賜った行であり、私自身が造った功徳ではないので、故人に施すことはできないということです。自分の意思で念仏を唱えるのではなく、阿弥陀仏の働きかけによって唱えているとするところに親鸞聖人の独自性が垣間見えます。

 私が最も興味深かったのは宇治先生の熊本のお寺の御門徒さんのメモのお話でした。その方が生前使用していた病室のベッドの下にはメモが残されていたそうです。「我死ぬにあらず、他力に引き取られるなり。」天に召されるのではなく、引き取られるという表現は、まるで自分が元々いた場所へ帰っていくことが分かっているようです。浄土真宗の阿弥陀仏の本願、他力の思想を美しく端的に表現されており私は大変感銘を受けました。第五条だけでなく、これまでの四回の公開講座で学んできた浄土真宗の思想の詰まっている言葉だと感じました。

 

報告/文学部日本語日本文学科3年 入部環菜(公開講座サポーター)