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** 観世音寺 **『筑紫語文』から「古寺探訪」

 日本語・日本文学科では、1回生の卒業以来、学科の学修活動を表すものとして『筑紫語文』を刊行してきました。前年度の優秀論文を中心に、博物館学芸員課程や教職課程、日本語教員養成課程の活動、文芸創作科目の作品などの学修成果と、学科として行っている特別講義・公開講座の報告や教員の研究余滴・コラムなどを掲載しています。
 それらの記事の中から、今回は橘名誉教授の「古寺探訪 観世音寺を訪ねて」をご紹介します。

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古寺探訪  観世音寺を訪ねて

橘 英哲(日本語・日本文学科名誉教授)

 

 今回は観世音寺である。はじめてここを訪れたのはいつだったか。もう覚えていない。いずれ学生時代だったのだろう。あのころ、国立の大学入試が三月はじめで、研究室に入ることもできず、よく仲間と近くにでかけていた。そのおりの訪問だったのではなかったか。

 大宰府政庁跡、一般に都府楼跡とよばれる地の東、学校院跡のさらに東隣にある。現在は天台宗、山号は清水山という。寺の裏に清水が湧いていたことに由来するという。境内の横にある石碑には『源氏物語玉鬘の巻』に出て来るとある。夕顔の遺児である玉鬘が、幼少を大宰府ですごしたことによるのだが、「大弐の御館の上の清水の御寺、観世音寺にまいり給しいきおひは」という文が『源氏物語』には記されている。都にも聞こえた寺だったのである。

 この寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善供養のため発願されたといわれている。創建は七世紀末から八世紀初頭とされていて、梵鐘や創建瓦といわれるものが今に残っているが、全体の完成は四、五十年遅れて、天平十八年聖武天皇の時であった。寺域は方三町とあるからおよそ三一八メートル四方、壮大な寺であったが、平安時代には相次ぐ台風・火事・戦火によりほとんど消失、その後の再建でも往時の復元はならなかった。

 連歌師飯尾宗祇の『筑紫道記』によれば、宗祇は文明十二年(一四八〇)九月十九日にここに参詣し「諸堂・塔婆・回廊みな跡もなく、名のみぞむかしのかたみとはみえ侍る。観音の御堂は今に廃せることなし。さては阿弥陀仏のおはします堂、又戒壇院、かたのごとく有り」と記している。すでに荒廃していたが、講堂・金堂・戒壇院などは残っていたのであろう。

 戒壇院は、観世音寺の西隣にひっそりと建っている。『筑前国続風土記』に「観世音寺の内にあり。是観世音寺四十九院の一なり」とある。もちろん、奈良東大寺、下野薬師寺にならぶ日本三戒壇院の一つであり、もとはこの観世音寺に属していた。しかし、近世に分離され、現在は臨済宗妙心寺派の一寺となっている。

 もう二十年以上も前二なるだろうか。短大国文科の先生方と、ここで精進料理をいただいたことがある。住職がその昔、大分の高崎山で最初に猿の餌付けをなさった方だそうで、当時、有名な和尚さんであった。自ら庖丁を持って料理をなさり、その一々を方丈に出て説明をしてくださった。禅寺の精進料理はその時が初めてであったが、いわゆるもどきの料理で、一見肉かと思えるものが、その実、椎茸であったりして珍しかった。和尚さんのお名前は失念したが、料理が大変美味しかったことは今でも覚えている。

 観世音寺境内の東側にコンクリート造りの宝蔵が建っている。何年振りかで参観した。一人だった。入堂すると、おそらく自動的にテープがまわりだすのであろうか、説明が始まる。仏像のほとんどが大きい。パンフレットには「作もすぐれ法量も大きく」とある。法量とは、仏体の大きさをあらわす言葉なのだろうが、言い得て妙だと思った。宗教的な精神性の深さと空間を占めるボリュームを、一度に言い表す言葉なのである。

 私はこの中で何度拝観しても好きなのは、阿弥陀如来坐像である。もと阿弥陀堂(金堂)に安置されていた仏様であるが、ご本尊にふさわしい柔和なお顔、たっぷりとしてふくおかなお体が、ひととき心を和ませてくれる。小さな可愛い仏像も良いが、これだけ大きいと、人を包み込む深さが感じられて、なにもかもまかせてしまって良いのだという安心感が生まれてくる。仏像の持つ大切なはたらきの一つなのである。テープが終るまでしばらく堂内にいた。そして、これからは時々来ようと思った。

 宝蔵の前に鐘楼がある。菅原道真が、「都府楼纔看瓦色、観音寺只聴鐘声」〔都府の楼にはわずかに瓦の色をみる、観音寺にはただ鐘の声をのみきく〕『菅家後集・不出門』と詠じた梵鐘である。前述の『筑紫道記』にも「暮るる程に名におふ鐘の音も聞き捨てがたく」と記されている。創建当時からあるもので、文武天皇二年(六九八)の銘がある京都妙心寺の鐘と兄弟鐘という。糟屋郡多々良(現福岡市東区多々良)で鋳造されたといわれていて、日本でも最古の梵鐘の一つである。道真配謫の居所は、現在の榎寺といわれている。直線で約一キロ、鐘も美しく聞こえる距離、しかも兄弟鐘であれば、響きも都のそれと似通っていたことであろう。都で聞きなれた鐘の音を辺境の地で聞きながら、都への思慕をつのらせていたにちがいない。今の私たちからみれば、「住めば都、大宰府も結構良いじゃない」となりそうだが、当時はまさに辺境の地であった。しかも、讒言による左遷、天拝山で、はるか都の空を望みながら、憤怒のあまり雷神と化したという伝説があり、それもむべなるかなである。この鐘は、以前は参拝者は撞くことができたが、現在は周囲に金網が張られていて登ることもできない。しかし今でも、大晦日の除夜の鐘としては鳴り響いているのであろう。

 余談になるが、NHKの番組に「いく年くる年」というのがある。紅白歌合戦が終ってすぐ、各地の除夜の鐘を中継する番組である。まだテレビの初期のころだったが、この中で森繁久弥氏が、中原中也の「除夜の鐘」という詩を朗読したことがあった。中継の場面にかぶさって詩がテロップで流れた。この詩は、

 「除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。」という詩句ではじまるのだが、その後に「それは寺院の森の霧つた空」という行がでてくる。この時森繁氏は、ちょっと躊躇した後で「キリったそら」と読んだ。後年、朗読の名人といわれた人で、この時も、この労働のためにだけ出演したほどの人だったが、下読みをしていなかったのか、さすがの森繁久弥もまちがえたと私は思った。私はこの詩をすでに知っていた。そしてケムったと読むのだろうと思っていた。(モヤったという読みも考えられると『中原中也全集』にはある)

 久しぶりにこの寺の鐘楼の前に立って、私はそのことを思い出していた。もう記憶は定かではないが、私がその番組を見ようと思ったのは、きっとこの鐘が除夜の鐘として中継されていたからだったにちがいない。あの時のバックに鳴っていたのは、この鐘のかどうかはしらない。しかし、霧のむこうから聞こえてくる除夜の鐘とは、いかにも日本的な美しい情景ではないか。

 そして私は、森繁氏はまちがえたのではないと、ほとんど確信したのであった。字幕が出るテレビはいいが、あの番組はラジオでも中継されていた。「ケムる」と読んだのでは、ラジオを聞いている人には「煙る」情景しか思い浮かばない。「キリった」とわざと読むことによって、ここの文字は霧と書いてあるのですよと知らせたかったのである。若いころ、あの森繁もまちがえたと、鬼の首でもとったように思っていた自分を、すこしばかり反省したことであった。

 清水山観世音寺、往時の壮大であったであろう面影を偲びながら、久しぶりで、しばしの古寺散策を楽しませてもらった。

『筑紫語文』第15号(2006年)より

 

No.125 **********